| 鞍掛合戦について | ||
杉隆泰(想像) |
玖珂町に於ける毛利氏と杉隆泰の合戦は、鞍掛合戦として数多くの書物によって紹介されています。 郡志中陰徳記・坂本陰徳太平記・吉川旧記・吉田物語・大内氏實録・萩藩閥閲録・椙杜伊織家文書などが挙げられます。 これらの参考書物から見ると、合戦の行われた日時は、弘治元年(1555)十月二十七日以前が妥当だと思われる。 |
毛利元就 |
| 厳島の戦いで陶晴賢に大勝利した毛利元就は、その勢いで岩国に進出し、周防東部を治める大内家の武将 杉氏や土豪の椙杜・小方に降伏するように書状を送りつけた。 これに対し椙杜・小方両氏は、毛利方に味方したが、杉隆泰は毛利元就の防長進出はどうしてもくい止める必要がある為、毛利には人質を送り一方では大内義長に忠誠を
尽くす考えでいた
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鞍掛合戦は、合戦としての規模は大きな合戦では無かったが、毛利元就は大内家の内紛を良い機会と捉え、あらゆる諜報を用いて防長侵略を行った最初の戦であった。 これ以降、毛利元就は西国大名としての地位を築いた。 御庄に配置した吉川元春・小早川隆景は山陽道の柱野を経由して欽明路方面から、一方北河内の壇に布陣していた毛利隆元を小方へ後詰めとし、元就みずから壇へ陣替え進出した。弘治元年10月26日深夜、御庄から吉川・小早川の軍勢が塔が森に進出して多くの松明を焚いた。 毛利本陣が柱野方面から進行すると見せかける為である。元就は弘治元年10月27日午前2時に北河内壇の陣を出発した。南河内の竹安・伊房を経由して椙杜の蓮華山に到達した。元就は椙杜隆康の手引きにより午前4時に鞍掛の背後より杉隆泰の居る谷津が原に奇襲をしかけたのである。毛利の急襲によって不意を突かれた鞍掛方は谷津が原で370余名が討ち死にし、残党は水無川に沿って二井寺に逃れた。毛利元就は隆泰の首実験を執り行い岩国に、吉川元春・小早川隆景の軍勢は町野氏の拠点である伊陸の高山寺城の攻略にかかった。
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鞍掛合戦期の近隣諸氏の状況 | |
蓮華山頂より鞍掛山を望む |
椙杜隆泰との関係 鞍掛合戦が始まる二年前の十月十八日に、毛利元就から椙杜隆康(蓮華城主)に宛てた書類の中に、誓文を以って本当の大内家の内情を申し届けるように催促している。 つまり毛利氏と椙杜氏との間には防長侵攻の事前の打ち合わせがあったことが窺える、隆泰のこの当時の心情は不明であるが、毛利氏と椙杜氏の裏かけひきはまったく知らなかったと思われる。 毛利元就は、椙杜氏を利用して防長攻略の機会を狙っていた。 杉隆泰と椙杜の毛利氏に対する立場の本質はまったく違っていた、両氏の関係は具体的に著述され物は無いが、おそらく領地をめぐる問題が有ったと思われる。 |
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小方隆忠との関係、 元就から小方氏(瀬田城山城主)に宛てた詳細な書類は見つからないが、椙杜と同様の書状があったもの推察出来る、このことは鞍掛合戦後毛利氏より南方九十石を与えられていることで窺える。 |
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| 鞍掛合戦と杉隆泰の心情 | ||
今から30年前の鞍掛山頂 |
1551年陶晴賢などの家臣の反乱により大内義隆が自刃して果てた後、大内家に有っては家臣団の対立があり複雑な状況であった、隆泰の本家杉重輔も年齢が若く有力な統率者不在のまま八本杉体制に緩みが出ていた。 杉隆泰は、陶晴賢に対して戦いを挑み篭城していた、とも考えられる。 当時の隆泰を取り巻く情勢は複雑であった、大内家の家臣としての立場上大内領地から見れば毛利元就は外敵である、なんとしても防長進出はくいとどめなければならない、しかし厳島の合戦に大勝した元就には勢いがあり、その勢力にはひれ伏さ無ければならない、このような背景から一時的に降伏を装い一方では大内家と連絡を保とうとする行動を取った。 |
鞍掛合戦 厳島の合戦で勝利した毛利元就軍の行軍は、小方→岩国(永興寺)→河内→鞍掛合戦→岩国(永興寺)となっている。 鞍掛合戦の規模は、長期間の戦いではない、毛利の軍勢が、椙杜・小方の在郷武士の手引きにて午前二時頃出陣し四時頃鞍掛へ到着し、午前五時〜七時頃にかけて一度におし寄せ杉隆泰陣の寝込みを襲撃した。 この僅かな時間に隆泰をはじめ歴代の重臣が討ち果たされている、未明に急襲し、敵に準備の時間を与えない、合戦と言うよりは討ち入りと呼ぶのがふさわしい。 この戦いにおいても元就の奇襲攻略の思想が窺われる。 |
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不意をつかれた鞍掛方は、城主 杉隆泰をはじめ、家老 柳井若狭守、宇野築後、児玉筑前、有永備中、 侍大将 三浦助衛門など、鞍掛側の戦死者三百七十名が谷津ヶ原にて戦死。侍大将や足軽大将など多くの家臣が水無川に沿って南西の方面の二井寺に逃れ最後迄戦を行ったが敢え無く敗れた。 勝利した元就は、杉隆泰館の前で首実験を執行し岩国へ、吉川元春や小早川隆景の軍勢は更に町野氏の居城である伊陸高山城を攻めた。 |
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| 杉隆泰家の研究概略 杉修介より | ||
杉隆泰の子息 [鎭頼]は、毛利の防長進出に伴い九州に逃れて大友の家臣となり、その後、日向の高城・耳川の合戦にて戦死した。 杉隆泰家証文 その跡を子息の専千世が継いだが、それ以降明確でない。 |
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