| ご存知の毛利元就が、『厳島の戦い』で陶晴賢に勝利した後、周防・長門の支配を得ようと防長路に軍を進めた最初の戦いが玖珂町史に残る 『鞍掛合戦』であります。
毛利軍の圧倒的な力と諜報戦により、敢無く杉隆泰家は滅亡した。
その結果、谷津の祥雲寺は運営保護を行う者が居なくなりました。 祥雲寺は、寺領を有していた為、年貢を納める義務が有ったにも拘わらず領主のなどの保護が得られず、支払いが困難な為、校割物(寺の宝物)を売り払つて支払いを済ませたものと思われる、この時に杉家の遺物が散逸した。
こうして谷津の寺ヶ浴の祥雲寺は、享保期(1716〜1735)には、既に寺跡のみとなっていたと記されています。 先立つ事慶安年間(1648〜1651)に吉川家の扶助により、野口に城泉寺が再建せられ曹洞宗城泉寺となりました、その時に薬師堂は、城泉寺の保管となりました。 又、年代は不明ですが杉隆泰の墓は野口の丈六寺に移されたとあります。
野口の城泉寺は、元禄14年(1701)本町に移転となりました。元文4年(1739)祥雲寺の名前に戻したとあります。 その後天明7年(1787)丈観和尚の時に本堂等を建て直したといいます。 丈観和尚の時、四天王像と共に、本堂の棟にシャチホコが奉納され、文化2年(1805)には涅槃図・前机・三ツ具足・半鐘・欄間が収められています。 薬師如来・日光・月光菩薩像・四天王像・千手観音坐像を安置した当時の祥雲寺は参拝者で大変賑ったとものと考えられます。
天明7年(1787)に再建された本堂等は、近年住職の無住などの理由によりほとんど使用されなくなりました。 また檀家数の減少も影響して修復されないまま現在に至り、倒壊の危険が生じました、近隣の居住者や保育園などに対し、安全上の配慮から、平成16年10月に本堂の解体を行いました。 何年も費やして再建された本堂は、およそ217年の幾星霜を経て、わずか数日間で解体されました。
祥雲寺に於いて行われた興味のある祭事
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